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上・ナガス鯨[「長須鯨図」]下・コク鯨[「児鯨図」共に『肥前国産物図考』佐賀県立博物館蔵]

 

非常に優秀な連中で、あちらこちらの鯨組から雇われていくようなところがあったようです。
谷川…技術的に優れていないとできないです。瀬戸内の家船は一本釣りなんですが、九州の家船は鉾突きで、その漁師が鯨組に入り鯨を突いたのでしょうね。
中園…しかし呼子という場所はとても面白いところです。呼子の港の入り口付近を先方(さきかた)と呼んでいますが、その先方には先方町、海士(あま)町、釣町(つりまち)・小倉町という三つの集落があります。その三つの集落の漁業形態がそれぞれ違う。先方町はもともと農業をやっていたところのようで、漁業への参加は後発だったようです。海士町は昔は鉾突きをしていたのですが、今はかし網です。釣町・小倉町には、どちらかというと一本釣りの漁師さんたちが住んでいます。さらに大正頃になると、阿波の堂浦辺りにカンコ船という三枚板の船があるのですが、その船に乗った一本釣りの漁民が呼子に来て、小さな集落を作る。呼子は、いろいろな時代にいろいろな漁法を携えて入ってきた漁民が住み着いたところです。
谷川…朝鮮から日本に来ると、壱岐から南下し小川島と加唐島を通り、呼子に到着する。呼子は朝鮮に一番近いわけです。あの付近は非常に重要なところです。
中園…今まで江戸時代の捕鯨を考える時に、先進地と言われている紀州や、紀州から技術が伝わっていた土佐における鯨漁の漁法や組織の問題と西海のそれとを一括して捉えていたのですが、どうも西海の様相と、紀州、土佐の様相とは若干違うのではないかと思うようになりました。例えば紀州の太地では鯨組が、太地浦を一つの単位として出てきます。西海でも、地域によってはそういう組織があったのですが、江戸時代初期の一七世紀中頃には、すでに優秀な刃刺、加子などを各地からスカウトして、一つの鯨組を作る形がはっきりと出ています。
例えば、益冨組揮下にある生月島の御崎組をみても、あちこちから来た人たちが合宿生活をしながら、冬から春にかけて鯨を捕って、それが終わるとまた故郷に帰っていくという行動を百年以上にわたってやっていたのです。そういう組織のあり方は明らかに紀州とは違うのではないかと思います。
谷川…鯨組が解体作業をするのは、マニュファクチュア(工場制手工業)だから、いろいろな人が集まらないとできないわけですね。私は、鯨組の組織にある種の平等性のようなものが当然生まれる素地があったのではないかと考えています。ですから不平等な使役の仕方で収奪するというような古い発想では、

 

 

 

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